昭和52年10月21日 朝の御理解(二代 大坪勝彦先生)
御理解 第57節
「金の杖をつけば曲がる。竹や木は折れる。神を杖につけば楽じゃ。」
おかげをもちまして、それこそ盛大に、有難く開教十周年祈念大祭を頂かせて頂きまして、それこそ親先生じゃないけれども、この御大祭を終わらせて頂いて、疲れてない人は、それこそカササギだと仰るように、だけど私としては本当にこの開教記念祭を境に、何か心身ともにはつらつとならせて頂きました。まさにカササギの部類に入るんだろうと思うのですけれども。本当にあのもうあれを聞いても、見ても有難いし、もう御用を頂かれておられる、それだけを見てもまぁ有難い一日でございました。
まぁそういう中に大祭を終わらせて頂いて、いよいよじっと思わせて頂きますと、もうあれだけの盛大なお祭りをさせて頂いた中に、いやいやまだまだこれからだという感じが、しきりにしてならないわけですね。もういよいよこれからが本番だと、いわゆるその緒についただけだという気がしてならないわけです。そのためにもいよいよこれはもう自分の力とか、私達がどれだけ努力したからと言うて出来るもんではない。
もういよいよ神様のお力におすがり申して、そこの所をおかげを頂いていかなければいけないと思わせて頂くのです。先日からあのビリグイの公子さんから、色々とお話を承らせて頂きます。それこそ末永先生のお話をお互い聞いたり、聞かせて頂いたりしておったわけですけれども。それこそやっぱりそうでもあろう、裏の方のそれこそ心苦労と言うものは、そうでもあろうと思わせて頂く訳です。そらやっぱり並大抵のことではなかっただろうと思うのですけれども。
もう本当に辛うて辛うて、もう帰ろうと思うた時に、あの寄せ書きを読ませて頂いて、あの、うちの親奥様が書いて頂いております、「神に縋りて」と言う事を読ませて頂いて、もうつき物が落ちたように、あの元気にならせて頂いたというんですね。それこそあの、ブラジルと言うところは、あの人に頼るとか言う事が全く出来ないんだという所だそうで、もういよいよ実感を込めて、神様に縋るしかないと言う事が分かるところだそうです。そういう意味合いで、本当に有難いところだと思うのですけれども。
お互今日の御理解からいきますと、確かに神様に縋っておるようでありますけれども、お願いしておるようでありますけれども、その縋り方がですね。例えば公子さんから言わせると足らない、縋っておるようだけれども、まだまだ金に縋っておったり、あの人に縋っておったりする所があるけれども、いよいよもうこれも頼りにならない。これもないと言う事になりますと、もうそれしかないと言う事になります。
そういう意味合いで、あまりにもお互い恵まれ過ぎて、縋る事を忘れておる所がないんじゃないかと思うほど、反省させられます。昨日から親先生達、総代さん始め菊栄会の方々御本部参拝、お礼参拝なさいましたけれども。例えばこのようにほんなら、親先生が一日お留守なさいますと、本当にあの親先生がおられるから、今まで例えば難儀な問題がくると、ちょっと待っておって下さい、親先生のお取次ぎ願いますからて、すぐ言いよりましたけれども、もうそれがきかないわけですね。
本当にあのそこにありますと、本当に当てにしますけれども。そういう意味合いで、今日幹三郎とそこの控えの部屋にやらせて頂いて、幹三郎に親先生のあのここの控えに出て、どうなさるかと僕が聞きまして、その通りにさせて頂きました。そしてそこの初めてですが出させて頂いて、天地を遥拝させて頂いたら、本当に親様のご苦労が分らせて頂きます。永井半四郎先生じゃないけれども。
親の後を継ぐと言うけれども、何を継ぐかと言うと、その親様のご苦労を継ぐのが、信心を継ぐと言う事だと仰います。同じ事をさせて頂きますと、本当にあの親様の思いと言うか、ご苦労というのが分らせて頂きます。まぁそう言う事で、今日の御祈念を終わらせて頂いて、そして御結界につかせて頂いて、そしてあの思わせて頂くのは、今申し上げますように、これからいよいよ大きくならせて頂き。
それこそ世界に羽ばたく合楽にならせて頂くためにも。お互いもっともっと当てになるものをなくしていかなきゃいけない。ぎりぎり申し上げますと、親先生すら当てにならない。当てになるのは、もうこの親神様以外にないと言う事を、痛感させて頂きました。そう言う事で一つ、さぁもう大概いわゆる、記念祭の後遺症は取り払わせて頂きまして、これから新たな信心を進めさせて頂きたいと思わせて頂きます。おかげ頂きまして有難うございます。